閑話その2ー日本語は難しい?

前回、なんとはなしに、「読まさせられる」という表現を使ってしまったのだが、どうも気になって仕方がない。「読ませられる」あるいは「読まされる」などといういい方とどう違うのか、今ひとつはっきりしていないのが、原因のようである。何十年と日本語の中で生きてきて初めて、日本語はやはり難しい、と思ってしまった。

そこで今回は、この問題を少し考えてみたい。

先日、石原都知事が「こんなもの(A)を、子供に読ませられるのか」と言っていたので、「読ませられる」は文法的にも正しい用法らしい。そして意味は、使役の可能、すなわち「読ませることができるのか」ということであろう。では、これを「Aを、子供に読まされるのか」と言ってみたらどうだろう。これは、何か違う。読まされる主体が子供ではなく、言っている自分にある感じだ。そしてこの「れる」は可能ではなく、受け身のようだ。

この問題は、文法的にいえば、使役動詞に受け身と可能が入り乱れ、しかも短縮形が絡まって複雑怪奇な文を作ってしまうというわけである。

もう少し、例文を考えてみたい。

「こんな本を読ませられるのは、迷惑である」
これは使役受け身形と言って正しい用法らしい。
「こんな本を読まされるのは、迷惑である」
これは上記短縮形。
「こんな本を読まさせられるのは、迷惑である」
これは強調が感じられるが用法としては誤りらしい。「読む+させる」と分解すれば、「させ(られ)る」に重点がありそうである。

また、こんな例もある。
「あまりの面白さに、つい読まさせられてしまった」
この場合は、
「あまりの面白さに、つい読ませられてしまった」
という正攻法は、変な感じがする。

ああ、頭がこんぐらかってきた。いや、ほんとに日本語は難しいのかも。
日本語を勉強している外国人が、なんかかわいそうになってきました。
この辺の問題を、スッキリと説明できる方法はないのでしょうか。まあ、宿題にしておきましょう。