草の森大冒険

ナンセンスの大家、草森紳一の書庫「任梟盧」を冒険します。

閑話その1-同人誌

今回は草森ワールドとは直接関係はないが、私こと冒険子の最近の話題から少し書いておきたい。十勝のある文芸同人誌に所属して三年になる。詩が中心の年間誌なのだが、冒険子は詩人でもないのに、どういうわけか、同人として書くことになっている。もちろん詩など高尚なものは書けそうもないから、もっぱら俳句を中心として表現法をあれこれ実験している。もちろん俳句も詩の一つではあるわけですが、…。

同人メンバーは、地方公務員や団体職員を退職した人から、保育士、翻訳家、新聞社のデスク、そして冒険子のようなただの会社員まで多士済々である。年齢は平均で50代後半という感じだが、10人中、女性は2人。

1月に最新号が発刊された。
詩が10篇ほどに随筆、小説、哲学など、そして俳句や写真とのコラボありで多彩である。

先日、発刊の合評会が行われた。
少し気になることもあった。いや、それが一般的なのだろうが、冒険子にはよく理解できないでいる。

簡単にいえば、技術論的な評価中心の感じがするのだ。コンセプトや思考法などという言葉は出てくるのだが、残念ながら表層的感想に終わっていて、魂に触れる芸術的共感とでもいうようなところまで踏み込めないのだ。もちろん、これは冒険子の言語感覚における力量不足ということである。

冒険子には、3.11のこともあって、故郷のことが気にかかる1年であったが、作句しようとすると、想起されるのはやはり東北のことばかりであった。そこで素直に思い出を詠い、この2年ほど日常にしている「生書き」(一応は書のようであるが、生原稿のこと)とコラボさせることにした。

冒険子の「神遊」とは、相撲をイメージしてもらうと分かりやすいのだが、俳句と写真等「何か」を組み合わせて、同じ土俵で遊んでもらおうということである。先々号では同調的写真を組み、先号ではさまざまな文学的表現と数学公式まで拡大し、マッチあるいはディスマッチの妙を狙ってみた。そして今回は、活字文学という間接話法と生原稿(とはいっても写真だが)という直接話法とのマリアージュを考えてみた。つまり、このワープロ文章も含めて、手書きでない文字は、打たれた(書かれた)時点で間接的表現といえるからだ。音よりも視覚を優先させてきた漢字文化圏にいる我々にとっては、特に問題としてよいことである。

そういう意図であるから下手な書でも構わないし、いやむしろ、そのほうが意図がはっきりしていいのではないか、と考えた。誰も生原稿の書きぶりを上手下手で評価する人はいない。でも、そのようにとらえてくれる人は、あまりいないようだ。

そこで問題なのは、同人誌に書くということはどういうことか、ということである。貴重であるはずの多くの時間を費やし、見えない勉強や研究をし、さらにわざわざ会費を払って自己表現を発表するのだから、自己満足以外の何かがなければ、たとえ純情な文学青年であっても楽しいはずはない。詩や文学を啓蒙したいからと言ってはみても、関係者以外ほとんど読まれもしないし、一般の読み手に魅力を感じてもらえなければ、ほとんど意味はないとも言える。

そうでなければ、自己満足のためと割り切ったほうがよいように思う。つまり自分のために書くのである。自分を磨くためでも、ストレス発散のためでも何でもよい。それならば、表層的な合評でも、褒め合いサロンでも、全く問題はない。ただ、そういうものを読まさせられる読者は、いい迷惑には違いない。もちろん立派な作品が多いのだが、冒険子は、「実験は失敗しなければ意味はない」(田口玄一:品質工学)というようなことを信条としているものだから、ある意味で困ったものなのである。