草の森大冒険

ナンセンスの大家、草森紳一の書庫「任梟盧」を冒険します。

ナンセンスは地球を救う?

もう50年以上も前の1966年、草森さん28歳の時分に書かれた一文であるが、「ナンセンスの練習」の迷宮に迷い込んだ。実に込み入っているが、これが草森さんの本領だろう。非常に益のある議論であった。センスあるナンセンスからセンスを超えたナンセンスを求めていくべきだが、それよりもそれらをひっくるめたものに相対するナンセンスそのものへと向かうべきであるとする。そしてさらには、ナンセンスさえもナンセンスと捉えられるようになることを最上とする。

まるで禅問答のようだが、この考え方は、実は今のロシア・ウクライナ問題に限らず、すべてのコモン・ナンセンスに対しての本質的解決方法を暗示しているように思う。戦争や反社会的行動は、地球規模で考えれば、あくまで内乱であり破壊活動であるから、ナンセンスである。いやコモン・ナンセンスである。しかし、当事者たちはそう思ってはいないだろう。あくまで、コモン・センスの行動と思っているし、彼らにナンセンスを受容する感覚はないであろう。つまり、絶えず繰り返されている戦争などというものは、正義といってもよいが、せンスとセンスのぶつかり合いに他ならないのだから、これを回避していくためには、ナンセンスを受容していくしかないのである。つまり、わからないものをわからないままに受け入れるという、精神的苦痛の鍛錬を積むしかないということなのだ。


またこれは、現代の社会の根本的問題であるISOなどに代表される論理的品質管理制度なども、人を全員コモン・センサーとして捉えているがためにロジック化し、またロボットと捉えるがために、がんじがらめのプログラム型管理制度となり、社会人はおろか子供達にまで、がちがちの束縛的暗黒世界を供していると思わざるを得ない。このままではSFではないが、ディストピアもそう遠くはないであろう。やはりナンセンスの受容なくしては明るい未来はないと思われるのだ。教育制度が平均的コモン・センス人を大量排出したといっても、もともと人は子供のようなナンセンス人なのであり、感情に支配され続けるものなのである。

 

ある江戸のカボチャというあだ名の狂歌師が神聖な(?)狂歌座で放屁をしてしまい、そのバツとして回文を要求されるのだが、それは悲劇であるはずだがあまりに面白いので紹介しておきたい。

「ヘゝゝゝゝヘゝゝゝゝゝゝヘゝゝゝゝヘゝゝゝゝゝゝヘゝゝゝゝゝゝ」加保茶元就(かぼちゃもとなり)

 

また、若き草森さんの天才的気づきだが、「馬鹿につける薬はナンセンスだ、そのように覚った時、一番蒼然とすることは受容者側がその薬をまったく受け付けない『センス性アレルギー状態』にあるということであった。」と書いているので、この薬を処方するのは、非常な困難を伴うのだが、少なくとも草森ファンの一人としては、やはりナンセンスの練習を続けていくしかないのである。

ぜひ一読をお勧めしたい。

「ナンセンスの練習」草森紳一 晶文社

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